中国語学習の最大の敵になるもののひとつに漢字がある。
漢字? 日本人なら読めるじゃないか、と思うかもしれない。しかし漢字といっても簡体字である。
現在、東アジアの漢字は三種類ある。簡体字と繁体字、日本の常用漢字だ。
第二次世界大戦が終わって、日本と中国はどちらも漢字改革に乗り出した。こうして誕生したのが日本の「常用漢字(当初は当用漢字と呼ばれた)」と中国の「簡体字」である。
そもそもの問題として、繁体字の画数が多すぎたのである。大体「窃」なんて「竊」だし「体」も「體」だし、「学」も「學」だ。こんなものいちいち書いてられない。
実際、戦前から――遡ろうと思えば何百年前から――略字としてこうした漢字は存在し、江戸時代の時点で「國」も「国」「口+王」という二種類の略字が手書きの文では使われていたのだ。一部の字については、それまで略字だったものが正書法として採用されただけである。
かくして戦後日中両国はそれぞれ独自の漢字の簡略化に踏み切った。現在も繁体字を使い続けている台湾と香港を除き、中国と日本の漢字は新字体を使っている。
だが上記の漢字改革で中国も日本もかなり無理をしたので、繁体字と比較すると分かりにくくなってしまった部分が発生した。
●常用漢字
・字数制限 さく裂★バ漢字
常用漢字の特徴は何といっても字数制限である。現時点で2136字が常用漢字として使われているが、これにない字はひらがなや他の漢字に書き換えねばならない。
この字数制限のせいで、多くの漢字が失われてしまった。
例えば「尖端」の「尖」は「先」になり、「沈澱」の「澱」は「殿」に変わった。「先端」はともかく「沈む」+「澱む」で「沈澱」なのに「殿」が「沈む」なんて意味不明である。
他にも「毀損」や「拿捕」といった常用漢字にない字は、「き損」や「だ捕」という具合に漢字で書かなくなった。
しかし私にはどうしても「き損」という漢字と平仮名の混ぜ書きが、ただ単に漢字が分からなくて書き損じたように見えてしまう。「沈殿」も「沈澱」の書き間違いに見える。
・字体 犬はどこへ?
日本では、常用漢字に入っていない漢字とそうでない漢字で字形が統一されていない。例えば「単」や「戦」は絶対に「単」という字を使うが、「蟬」は「蝉」と書くことも「蟬」と書くこともある。これは「単」と「戦」は常用漢字だが「蟬」がそうでないからである。こうした字体の混乱はフォントに反映されており、どちらもパソコン上で打ち出すことができる。
日本の漢字では、「驛」「澤」の右側は「尺」に変えて「駅」「沢」にしたり、「榮」「螢」を「栄」「蛍」にしたりと、他の字と被る形で字体が整理されたものが多い。(例えば「ツ+ワ」は「學」を省略した「学」にも使われている)
しかし「傳」「轉」を「伝」「転」と「云」に置き換えるのはまだしも、「藝」をもともと「芸」と読んでいた別字をあてて「芸」にしてしまったのはどうかと思う。そもそも「專」が「専」になったのだから「車+専」でもよかったのではないだろうか。まあまず「専」と「博」の右側の形が非常に似てしまったのも失敗だと思うが……。
また、一部が筆画の省略の為に別の字に置き換えられたものの中には、なぜそうなったのかよく分からないものも多い。
まず「拝」の旧字体は「拜」で手偏になったのはまだ分かりやすいが、「包」を「包」にして中を「巳」から己に変えたのはいただけない。「包」は本来子宮に胎児(巳は形の定まらない生物の意味)が入っている様子を表しているのであって、中身は己ではない。
「缶」は「罐」という字を省略したものだが、「缶」自体は本来まったく違う意味(酒をいれるかめ)でこれでよかったのやら。
「図」に至っては旧字体の「圖」から見ると訳が分からない。「圖」がなぜ「図」になったのか私も定かではないが、一説では中は片仮名の「ヅ」なんだかとか。
そういえば字体の整理で多くの「犬」が消えた。「器」「涙」「突」は現在の字体では中に入っているのは全部「大」だが、昔は「犬」であった。犬に恨みでもあったんだろうか。ちなみに「突」は「穴」から「犬」が出てくる様子を表し、だからこそ「突進」「突撃」という熟語に使われる意味を持つのだ。
●簡体字
・字体 スカス漢字
中国の方が画数の減らし方が徹底している。以前紹介した「飞(飛)」や「丰(豊)」も代表例で、他にも「书(書)」「归(帰)」「无(無)」「几(幾)」「鸟(鳥)」「风(風)」「厌(厭)」「丽(麗)」「从(従)」など、もとの字と比べると恐ろしく画数が減っている。ちなみに「飛」「従」に関しては、実はそれぞれの字の篆書体をもとにして造字したものである。
また日本では「廣」を「広」にしたり「氣」を「気」にしたりと一応漢字としての体裁を保っているのに対し、簡体字では「广」「气」のようなバランスの悪いスカスカな漢字が多い。「厂(廠)」なんてもはや見た目部首だ。
部首や扁旁の省略も多い。
「言べん」も草書体にヒントを得て全部「说」「话」「谈」としたりしたが、おかげでさんずいと見分けがつきにくくなった。「谈」と「淡」なんて手書きじゃほとんど同じになってしまいそうである。「饭(飯)」「馆(館)」との「食へん」は略して画数が減っているが、「钱(銭)」「钉(釘)」の「金へん」は略しても大して字形が変わっていないような。
そして簡体字は、発音に基づく略字も多い。例えば「遅」は「迟」になるが、これは中にある「尺 chi3」が「迟 chi2」と声調が違うだけで発音は同じなので音符として使っているのだ。「達」は「达」、「鐘」は「钟」、「審」は「审」になっているが同じ理屈である。
さらに簡体字では、画数を省略した結果複数の字が同じ一つの字になってしまったものもある。
例えば「発」と「髪」は簡体字では両方とも「发」である。「発」の意味で使うときはfa1、髪の意味の時はfa4という発音の違いはあるが書いたら同じ字である。
おまけに「谷」に至っては、中国語だと「谷」という漢字はあまり使われないので「穀」の簡体字として使われている。「谷」と「穀」はgu3で、声調も発音もまったく同じだからだ。よって「穀物」は「谷物」になる。
しかしこういった漢字の書き換えも、さきほど紹介した日本語の常用漢字への書き換えと似ているのかもしれない。要は漢字をほとんど音節文字として使っているわけである。
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非常に画数の多い繁体字を書き続けることへの抵抗から生まれた簡略化は、それぞれの漢字に禍根を残した。結局のところ繁体字・簡体字・常用漢字のどの漢字も使いづらさはあり、どれがいいとは言いづらい。
ところで日本人や中国人がお互いの言語を学習する際に、お互いの漢字を知っていることはアドバンテージにもなれば思わぬ落とし穴もある。
例えば「发明」「头发」で「发」は声調が違うし、そもそももとの字が「発明」と「頭髪」であるのがすぐには分かりにくい。他にも「後」は「后」で「後者」は簡体字で書いたら「后者」だが、別に「皇后」の「后」とは何の関係もない。
細かい字の違いも多い。「圧力」は中国語なら「压力 ストレス」になるし、「検査」も「检查」で簡体字の「査」は下をよく見ると「旦」になっている。
さっきの「先端」も中国語だと「尖端」である。これは中国では字数制限が行われなかったために、現在でも「尖端」が使われ続けているからである。
日本人は中国語を話すと、自分の母語にある漢語を中国語の発音で読めばいいと思ってしまうことが多いので、こうした間違いはよく見られる。